起業するために会社を辞めることは怖いというが、僕の場合、半分仕方なかった。
僕は大学を卒業した23歳から4年間、高知県で父の経営する介護事業に携わっていた。4年で500万円を貯め、妻と二人でアメリカへ留学する計画だった。
貯金のため、僕らは老人ホームに住み込みながら、0から2棟目となる住宅型有料老人ホーム「オリーブホーム」を立ち上げた。138床、6階建ての大きな施設をゼロからつくることは、若い僕にとって大きなやりがいだった。一方で、まだ20代前半。冒険もしたかったし、好きな音楽で成功したいという野望もあった。

目標の入居率を達成した頃には、度重なる社内外のトラブルや夜勤を含む重責と労働で、僕らは心身ともに疲れ果てていた。最初に限界を迎えたのは妻だった。不眠などの症状が現れ、受診すると重度の自律神経失調症と診断された。
苦しむ妻の姿を見た僕は、パソコンを開き、妻の実家へのフライトを予約した。こうして僕らは、まるで逃げ出すように高知を後にした。
向かったのは妻の故郷、沖縄だった。
当時所有していた三菱デリカスペースギアに音楽機材を詰め込み、大阪まで運転し、フェリーで車ごと沖縄へ渡った。50キロのウーハーを含む音響機材や音楽制作機材は、僕にとって財産だった。
日用品より先に音楽機材を積み込んだとき、僕の中には「これからは音楽で食べていく」という静かな覚悟があった。
沖縄では妻の姉の家族のもとに居候しながら、次の一手を考えた。
200万円しかなかった
4年間、二人で住み込みで働いて貯めた現金は、わずか200万円だった。
アメリカで修士号を取るため、500万円を目標に貯金していた。しかし、仕事が忙しく、外食も増え、思うように貯金できなかった。ここまで来たら、その200万円を切り崩すしかない。
「どうせアメリカ留学は無理な話だったんだ」
そう開き直った。
自分の力で稼げるか
すべての責任から解放され、久しぶりに自由になった僕には、大きな期待と少しの不安があった。好きなことだけで生きていけるほど、世の中が甘くないことも分かっていた。
それでも、父の会社でいくら成功しても、「自分の力で成し遂げた」とは思ってもらえないのではないか。そんな生意気な思いもあった。
自分で0から事業を立ち上げ、実業家としての力を証明したい。そして、自分自身を試してみたい。
そこで、音楽制作と動画制作のフリーランスを始めることにした。自分の好きなことで人を助け、その対価で食べていけるか試してみようと思った。
事業に全振りした住居環境
まず探したのは、住居兼店舗だった。
生活費と事業費を抑えるため、生活と仕事を同じ空間にする。条件は、とにかく安いこと。そして音を出せること。録音やミキシングでは大きな音が必要になるため、外部の音が入りにくい鉄筋コンクリート造りが理想だった。立地も、所属していたキリスト教会から遠くない場所を探した。
そして、沖縄市のイオンモール「ライカム」の近くに、理想に近い物件を見つけた。
半地下にある、元居酒屋の物件だった。
表の道路からは地下1階だが、傾斜地に建っているため裏側から見ると2階。1階と3階は倉庫で人は住んでおらず、4階には大家が住んでいた。深夜まで音を出しても問題なかった。
昭和の居酒屋の名残が至る所に残り、生活空間とは程遠かった。しかし、その業務仕様のつくりが、むしろ僕には都合がよかった。家賃はわずか3万5千円。
約20畳のリビングと寝室がある1LDKで、寝室をスタジオにした。服や寝具は押し入れに詰め込み、生活感を消した。リビングダイニングは、来客時の応接間とポッドキャスト収録スタジオを兼ねた。


結局は勇気
2017年11月。僕らは、この3万5千円の部屋を拠点に「マミヤプロダクション」という屋号で個人事業を始めた。
振り返ってみると、あの時の僕には十分な資金も、人脈も、完璧な計画もなかった。無謀であったと言っても過言ではない。
あったのは200万円と、僅かな技術と夢だけだった。
そして、もう一つ。「自分の力でやってみたい」という気持ちだった。
起業というと、十分な資金を貯め、綿密な事業計画をつくり、準備が整ってから始めるものだと思うかもしれない。
もちろん、準備は重要だが、100%準備が整うのを待っていたら、いつまで経っても始めることはできない。
僕の場合、人生をやり直すために必要だったのは、勇気をもって挑戦することだった。
200万円しかなかった。妻は病気だった。経験もコネもない、見知らぬ土地だった。
それでも、僕は挑戦したいという一心で起業した。
この起業の経験がなければ、今はないし、その後の人生に大きなインパクトを与えたことは言うまでもない。


